〜CROSS OVER〜 2009.7.22〜8.19

―由布院と世界のある日 ある場所―
石松健男 写真展


   
1950年頃の金鱗湖
2000 サンジェルマン・ゲイパレード

2000 サンジェルマン・ゲイパレード
2000 サンジェルマン・ゲイパレード
1960〜2006 ポスター集
1960〜2006 ポスター集
 
2007シチリア島 (コルトンカラー)
 - 石松 健男 プロフィール -  
1936
大分県宇佐市生まれ
1958
日本大学芸術学部写真学科卒業
1960
現代美術家集団 ネオ・ダダグループ取材
1970
映画「煉獄エロイカ」吉田喜重監督作品スチール写真
1973
記録映画「彫刻家本郷新の世界〈創る〉」キネマ旬報4位入賞
1975
写真集「創作舞踊家花柳幻舟〈残情死考〉」
1980
写真展〈壁・過去からの心象〉東京銀座  地球堂ギャラリー
1983
映画「国東物語」村野鐡太郎監督作品スチール写真
1986
写真展「ボンジュール・パリ」大分 キムラヤ画廊
1990
写真展「MON PARIS・La nostalgie・旅愁」
     愛知県足助町 マンリン書店蔵の中
1992
写真展「霧の街カストロ・地球の裏側CHILE」
     湯布院 ギャラリーMUNE
1993
映画「KOYA・澄賢房覚え書」村野鐡太郎監督作品
スチール写真
1994
写真展「流動する美術ネオ・ダダ」福岡市立美術館
1995
写真展「‘95ネオダダ〈一断面〉」大分市 コンパルホール
1996
写真展「和紙による試み“麦”」東京銀座 画廊春秋
1997
写真集「オフのゆふいん」出版
1998
写真展「ネオダダJAPAN 1958-1998 磯崎新とホワイトハウスの面々」
   大分市 アートプラザ
1999
写真展「横光利一(旅愁)の舞台を訪ねて」東京 世田谷文学館
2000
写真展「“彩”世界のある日あるところ」大分市 アートプラザ
写真展「ネオダダの記録-ホワイトハウスを中心に―」東京 ギャラリー360°
2001
写真展「PARIS サンジェルマンのゲイ・パレード」大分 ギャラリーデボラ
写真展「国東半島六郷満山嶺入り行」国東町 アストくにさき
写真展「在りし日の朝倉文夫」朝地町 朝倉文夫記念館
2003
EU企画写真展“在る情景”(国東半島に遺る煙草乾燥倉)
2004
写真集 EU企画写真集「OITA・TODAY」
2005
出版本「大分の祭り」(著者 幸萌)
2006
写真展「朝倉文夫1962年12月」東京 朝倉彫塑館
2007
年間企画「おおいた遺産」(大分合同新聞社)連載始まる
スペイン・イタリア・パリ取材旅行
2008
3月 72才で永眠
 
オマージュを込めて  石松幸子

 石松健男が永遠の撮影に旅立ってから、初めての写真展です。
 生前ご縁のあった人々から、沢山の声が届きました。
石松さんの作品を観るといつもホットするんです、どうしてあんなに透明感があるんですかね。
石松さんは、どうして汚い物でも品良く撮れるんでしょう?
石松さんの撮った風景から風を感じるんです。自分がその場に居るような、木々の動きが分かるんですよね。
石松さんの写真は何か違うんです。漂っている気配それが何なのかよく解らないけれど・・・・・・・。
石松さんは、いつも静かな笑顔の人だったけど何を考えているのか掴み所がない不思議な人でしたよね!

そうなんです!!その全てが石松健男でした。生きているのに 自分の感情を顔に出さず、(特に人間の負の感情や行動を、心の何処に封をしてしまうのか・・・・)
とにかく、バランス感覚のいい人でした。多くを語らず、手にしたカメラを自分の心の代弁者とするのかのように、心動かされる人や物、全てを被写体と考え、シャッターを押し続けてきた人だと思います。
何より人間が好きで、人の心を覗きこむのではなく、さらりと気付かれないようにさり気なく、表情をスナップするのが得意な人でした。
今回の湯布院での2会場の写真展は、50年間プロフェッショナルとして写真家一筋の道を走り続けてきた仕事展と、好きだったライフワークの作品を、観て楽しんで石松健男を想い出していただけたら・・・・それだけでとても嬉しいです。

 
「石松健男写真展に寄せて」  中谷健太郎 (亀の井別荘主人)

 石松健男氏は怪しい男だった。ビザンチンの壁画のような大きな目に、思いきった優しさをみなぎらせ、時に冷酷な光を放つ人物、私には、その「切り替え」の仕組みが今も判らない。
「私も都落ちです」、そう名乗って手渡された横長の写真集に一人の「狂女」が舞っていた。「花柳幻舟」だった。「狂女」を写真に撮る、あるいは「女」を「狂女」に撮る、その目線の底に何があったのかが見えない。見えないままに酒を飲み、写真を撮って貰って、一緒に笑いながら30年が過ぎた。そして彼は消えた。
 20年程前の話だ。突然、「由布院駅舎事件」が起きた。JR社が誕生してまもなく、由布院駅が「新築」されることになった。“バンザイ、ヤッタゾ”。だけど設計は国鉄伝統のJR工務課だという。“ダメダ、設計はわれらが大分の磯崎さんでなくちゃあ”。風景論、建築論が渦巻いて町中が騒然となった。バルセローナのオリンピック会場図を完成してほっと一息の磯崎さんを直接、東京に「お訪ね」した事で騒ぎが更に大きくなった。
 ある日、磯崎さんのサインのついた一枚の「駅舎スケッチ」が湯布院町役場から県庁、JR社を駆け抜けて、「由布院駅設計図」に辿り着いた。やがて加速し、勢いも付いて、完成の虹が空に見え始めた頃、急ブレーキが掛った。「待合室の出来上がりが違う」というのだ。
そもそも駅舎はJRと湯布院町の「合同建築」だった。「管理部門」と「ホーム」をJR社が、「待合室」を湯布院町が、「コンコース」は共用で、それぞれ建てる。町は「待合室」を「展示空間」として町民に供与し、同時に旅客のための「待合空間」としてJR社に管理せしめる、その町民の「展示空間」が専ら「待合室」用に設計されていて、展示のための「壁面」が少ない、というのだ。磯崎事務所は聞いてないという。町民会議も後には引けない。磯崎さんとの「対決」になってきた。
立ち往生の夜の「飲み会」に、帰郷中の磯崎さんが加わって一気に遮断機が切り替わった。「待合室の窓を塞いで、壁面を増やそう、明日の朝、現場に行って指示するよ」。一同歓声を挙げ、風倉さんが踊りだし、石松さんがシャッターを切る。こうして由布院駅は動き出し、完成した。
風倉さんも、石松さんも、大分の「ネオ・ダダ運動」をポケットに捩じ込んで、東京の「カオス」を走り抜けた仲間だった。今日、待合室で催される「石松健男写真展」に若い磯崎さんはしっかりと写し取られているが、シャッターを押した石松さんは、もういない。

 


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